太陽牡牛座のひとりごと

私が小学生くらいの頃、プロフィール帳が流行っていた。

友だちに紙を渡し、誕生日や好きな物などを書き込んでもらってファイリングしていくようなものだ。

その中には大抵「好きなアーティスト」や「好きなお店」などを書く欄があり、私はそれが苦手だった。

 

 

突然ですが、あなたの好きな食べ物はなんですか?

 

そう聞かれた時、特定の食べ物や献立を答える方が多いのではないかと思う。

私はこれに答えるのが苦手だ。

嫌いな食べ物は明確なのですぐに答えられる。

 

好きな食べ物を考える時、例えば私はカレーが好きだとする。

カレーの中でも特に好きで毎日食べたいと思うカレーもあれば別にそこまででもないカレーもある、と私は思う。

そして好きなカレーとそこまででもないカレーの間に好きなオムライスや好きなハンバーグなどが存在していたりする。

またそれと同時にそこまででもないオムライスやハンバーグも存在していたりする。

そして私はわからなくなる。

この場合カレーが好きと一概に言ってしまうのは違うのではないか?(そしてオムライスやハンバーグが好きと言うのもまた違うのでは?)と思ってしまう。

 

好きなアーティストやブランドなどでもそういうことが起こる。

このアーティストのこの曲は好きだけど他はそんなに…だったり、このブランドのこの服は好きだけど…といったことがよくあって難しいなと思う。

 

ただ、最近ジャンルを問わず私の中でこれが好き!と思ったものを抽出していったら共通点がある気がしてきたのだ。

食べ物でも音楽でも香りでも絵でも核の部分の好みは同じなのでは?

私の中の感覚なので人に伝わるのかわからないが、それは初夏の風を感じるもの、透明感があるもの、濁りがなく緑や青みがかった色を感じるもの、春のような空気感を感じるもの、など。

 

たぶんこういうことを誰かに言っても伝わることはあまりないと思うが、私にとってはひとつの答えが見えた気がした。

ひと言で人に伝えるのは変わらず苦手だけど、もっともっとここのこれが好きと思うものに出会い続けたらそのうち人に伝わる何かが見つかる気がする。

自分の感覚に正直にもっと好きなものを集めていきたいと思った次第。

「Aセクシャル」と私のこと

Aセクシャルを自認したきっかけについて。

 

オフ会などでよく話題に上るので何度か話したことがあるのですが、私が話下手なのもありいつもざっくりとした話で終わってしまうので一度文章にしておきたいと思いました。

この記事を書こうと思った時に、私がAセクシャルという言葉を知ってから10年ほど経ったことに気づきました。すごい。

 

Asexual フラッグ

中学生~高校生頃:恋愛わからない期

多分初めにどうやら周りとは違うっぽいと思ったのは中学生の頃だったと思う。

たまたま何人かで好きな人の話になった時に、次々好きな人を告白していく同級生に衝撃を受けた。

いつの間にみんなそんな気持ちを抱いていたのかと。

その後、私の順番がきても当然答えられるはずもなかったのだが、みんな言ったのだからお前も言えよの圧がすごく適当な男子の名前を答えてしまった。

その件に関しては今でも微妙な後悔がある。

 

高校生の頃はなんとなくヘテロではなくレズビアンあるいはバイではないかと思いつつのほほんと生きていたが、恋愛ができないコンプレックスは常に抱えており、試行錯誤を繰り返していた。

 

高校生~大学1年頃:恋愛したい期

大学に入学して一年目くらいまでは、私も誰かと付き合ってみたいと思っていた。

当時よくメールをしたり遊びに行ったりしていた相手がいた。

恋愛的な意味で好きかどうかはわからなかったが、それなりに楽しかったし周りの言う”普通”になれることに安心感があった。

 

結論から言うと、後々私から告白して振られたのだが、とても晴れやかな気持ちになったのを覚えている。

聞き及んでいたいわゆる失恋ってもっと悲しいものなんじゃなかったのか。

はっきり自覚できていなかったが、ずっと心のどこかでもやもやしたものを抱えていたんだと思う。

 

Aセクシャルという言葉に出会ったのもこの時期だ。

 

それ以降:Aセクとの出会い~自認まで

出会ったきっかけはTwitterでたまたま流れてきた漫画だった。

 

twitter.com

 

読んだときに直感的にこれだ!と思い、かなり気持ちが楽になったのを覚えている。

しかし同時に本当にそうか?という気持ちもまだあり、そこから1~2年ははっきり自認できずオフ会でいろんな人の話を聞いたり、ネットで情報を集めたりしていた。

女性向け風俗にも一度行ってみたことがあるし、友情結婚掲示板を見つけて何人かとやりとりもしていた。

 

その過程で色々な考え方や生き方があることを知ることができた。

それまでの社会生活で刷り込まれてきた考え方はすぐには切り替えられなかったし、かなり寄り道もした。

周りの普通に合わせなくていいし、好きに生きようと思えた時に私の中でちゃんと自認することができた気がする。

 

自認してからはじめたこと/やめたこと

まずやめたこと。

・(主に恋愛、性的な関係について)少しでも嫌なことはしない、手に余るもの/ことを無理に抱えない

 

はじめたことについては色々ある。

・他人向けに偽った私ではなく、私は私のままでいいと思えるようになった

・やってみたいことはやってみる

・レディース、メンズ問わず好きな服を着るようになった

ジェンダーセクシャリティフェミニズム関係の本もよく読むようになった

・趣味がめっちゃ増えた!笑

 

おわりに

現在私はAロマンティックAセクシャルを自認してそれなりに楽しく生きている。

これからも寄り道したりすることはあると思うけど、好きなことしながらのんびり生きていきたいな~と思っている。

基本的に気の向くままに揺蕩っているので、もしあなたとも人生の端々でタイミングが合った際はよかったら一緒に遊んでくださると嬉しいです。

 

映画『そばかす』観たあとのひとりごと

12月20日、今年を締め括るには少し早い気もするが2022年は面白い年だった。

年の始めにドラマ『恋せぬふたり』の放送があり、素敵な本と作者さんに出会えた、年末には映画『そばかす』が公開され、Aro/Ace的には盛りだくさんな1年。

Aro/Ace作品になかなか出会えず、自分から掴みにいかないとアクセスできないような、そんな今までの状況から見ると信じられない1年だった。

 

わたしは今年で30歳になった。どうせわかってもらえないならと口を噤むことの方が上手くなってしまったことに気付き、周りを気にせずにお喋りできていた小さい頃の自分を取り戻したいと思い始めたところでこの『そばかす』。

よかったな~。

Aro/Aceあるあるがいつものやつといえばそうなんだけど、わたしにとっては「我慢しない、居場所をつくる」が今年後半のテーマだったので、個人的にはわかる!の嵐で、一緒に走り出したくなったのだった。

好きの根っこ

わたしは絵や物語や音楽や踊りが好き。

それは必ずしも自分がやっていないといけないわけでなく、人がやっている/やったのを見るのも好きだ。

そういういわゆる芸術と呼ばれるものたちの根源的な部分が好き、と最近実感する機会が多い。

大昔の人々が営んできた、

自然の音からリズムを見出し、リズムが鳴ったら自然に身体が動いたりすることも、

夜空の星を眺めてできた物語や、生活の営みや数々の物語を表そうと誰かが筆をとった絵など、

わたしが知る由もないようなずっとずっと前から、人間たちが繋げてきたことを想うと泣きそうになる。

先日各地の神話を読んでいて、同じようなエピソードが別々の場所の神話に残っていたりすることに気づいてとても不思議な感覚になった。

そういう世界の繋がり。

普段国というまとまりに押し込められているわたしたちは根源的にもっと自由であっていいのではないか。

世界のどこにいたって音は鳴るし、音が鳴ったら踊りたくなる気持ち、空を見上げてお話を紡ぎたくなる気持ち、絵で表現したくなる気持ちにそんな大きな差なんかあるのか?

そういう世界の中で成り立っているわたしという人間をもっと愛してもいいのかもしれない

本屋で泣きそうになったはなし

今日、出先で時間ができたのでふらっと立ち寄った本屋で泣きそうになった。

 

わたしはもともと本を読むのが好きだった。

物語が好きだった。

中学生くらいまでは図書館に通っては本を借り、本屋に行けば興味のある本を探し、とりあえず本があればいつまででも過ごせるような、そんな子どもだった。

そこに行けばいつでもたくさんの本に出会える図書館や本屋は宝の山みたいだと思っていたし、楽しかった。

だが、高校生くらいから足が遠のき、あまり本を読まなくなってしまった。

単純に勉強や受験や、他にやらないといけないことが出てきて時間がなかったというのもあるけれど、それよりも読みたい本に出会える確率が、それまでよりも下がってしまった気がしたからだ。

年齢が上がるにつれて手に届きやすい本の選択肢の中に恋愛の描写が入っているものが格段に増えていくような気がした。

小説を開けば男と女の恋愛恋愛恋愛…。

最初は楽しく読めていても、登場人物の誰かと誰かが恋愛関係になり始めると冷めてしまう。

男と女が出てきて恋愛関係にならない話、もしくは女の子が恋をして母になり…みたいなのじゃない話はないのか。

男でも女でもいい、登場人物が登場人物のまま、恋愛じゃない何かしらの人間関係の中でその人らしく生きていく話が読みたかった。

だけど恋愛が絡まない話を探すのは広い海の中からお気に入りの宝物をひとつ探すみたいなもので、当時のわたしにとってはそれがなかなかに難しく、次第に足が遠のいてしまった。

それからの何年かは、必要になったときに必要な本を買ったり借りたりするくらいの距離感を保ちつつ、小説や物語と入れ替わるようにして、漫画をよく読むようになったのだった。

 

昨年くらいから、数ヶ月に1度本屋で気になった本をわっとまとめて買う会をひとりで開催している。

フェミニズムの関係に興味を持ちはじめ、読みたい本がいくつか出てきたためだ。

ここ何回かはだいたい足を運ぶ場所が決まっていて同じようなルートを見て回って、気になった本があれば手に取る、くらいの感じだった。

最近いろんな人のおすすめや、細々とした本との出会いを通じて気になる本がちらほら増えてきていたので、今日はなんとなく最近近寄らなかったジャンルの方まで全体に回ってみようと思えた。

ひとつひとつタイトルを辿りながらゆっくりと眺めて回った書架の中で、読んでみたいと思える本がいくつか見つかった。

本の海の中でそれらの本たちがキラキラと輝いて見えて、泣きそうになった。

本に囲まれてわくわくしていた、昔の気持ちが蘇った気がした。

途方もない数の本の中で、これだ!と思うものを見つけるのはまだまだ難しい。

でも広い海の中でわたしにとっての宝物を見つける手がかりが、少しだけわかった気がする。

今日選んだ本たちは前回までの本とは少し顔触れが違っている。

絵を描くことと、わたしとセクシャリティ

子どもの頃のことを思い出していた。

 

わたしは何か作ったり描いたり、表現することが好きな子どもだった。

ひらがなや漢字を覚える年齢になったら新しい文字を読んだり書いたりすることがとても楽しく、絵を描くことも好きだったので紙さえあれば楽しく過ごせた。

絵が上手と言われるのが嬉しくて、褒められるとまた描いた。

描くのが楽しかった。

そんな子ども時代を過ごしたわたしは進路を選ぶ時期になっても絵の道に進むことを選んだ。

しかし、受験するにあたり予備校に通ったり大学で制作したりする中で、自分が何を本当に表現したいのか徐々にわからなくなってしまっていた。と、今になっては思う。

 


ところで、わたしはアロマンティック/アセクシャルを自認している。

自認したのは20歳になった頃だと思うが、周りとの会話に違和感を覚え異性愛者ではないと感じ始めたのは小学校高学年〜中学生の頃だったと思う。

当時言語化はできなかったが、違和感を感じてから言葉に出会うまでの間に、社会の中で自分の本心を飲み込んで当たり障りのない受け答えをする術を身につけてしまっていた。

だからだろうか、自分を表現することが昔よりもうまくできなくなっていた。

当時はわたしなりに真剣に制作に向き合っていたと思う。

きっとその時のわたしにしかできなかった表現だとも思うが、何かを隠そうとしながらする表現は、人の心の奥には届かない。

自認して昔からの違和感の正体には気づいたものの、それからもずっと本当のわたしを心の奥の部屋に隠して、玄関先で笑っているような気持ちだった。

そんな風だったからだろうか、大学を出てから絵が描けなくなった。

正確には何を表現したいのかわからなくなった、が近いかもしれない。

(それでも何か描きたい気持ちはありしばらく二次創作に打ちこんだりしていたのだが、それはまた別の話。)

 


絵が描けなくて、短歌をはじめてみたり、楽器を弾いてみたり本を読んだり映画を観たり色々なものに手を出して、最近ようやく心の奥にしまったわたしが表に戻ってきた気がする。

今は文章を書くのがしっくりきていて、文章と絵で何かできないかなと考えている。

子どもの頃のように描けるかはわからないが、ここからまた今のわたしなりに、表現したいことを世に出していけたらなと思うのだった。

しあわせについて

あなたが誰かにしあわせになってほしいと願った時に想像していることは何で、これが人間の正しい在り方であると心のどこかで思っていることは何だ

 

わたしはしあわせになりたいとは思うが、それはあなたの言うしあわせではない